Top > 越前大野城について
越前大野城は、大野市北西部に位置する大野盆地にある標高約249mの亀山に築かれた平山城です。 安土城が築城された前年、天正4年 (1576) 頃、織田信長より大野郡の3分の2を与えられた金森長近により、4年の歳月をかけて築城されました。 土台となる石垣は、自然石をそのまま積み上げた野面積み(のづらづみ)という工法で作られています。 現在の天守は、昭和43年に絵図や同時代の城を参考に再建されたもので、内部には歴代城主の遺品が数多く展示されています。
天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。 翌年、長近は亀山に平山城の城郭と、その東麓に、大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めました。
大野城の城主は、築城されてから明治に入り城が払い下げられるまでの間に、19人が務めています。 安土桃山時代の城主には、金森長近のほか、豊臣秀吉の一族といわれる青木一矩(かずのり)や、信長の孫・織田秀雄(ひでかつ)などもいました。
江戸時代に入ると、大野は福井藩の一部となり、福井藩主・結城秀康(松平秀康)の有力な家臣・土屋正明が大野城主を務めました。 土屋正明は結城秀康の家臣でありながら石高は3万8千石(≒お米で約5700t)で、小藩の大名と同じくらいの領地を持っている優秀な人物でした。
寛永元年(1624)に、結城秀康の子・松平直政が城主となった際には、大野藩の石高は5万石(≒お米で約7500t)に加増されました。
松平直政はその後、信濃松本(現在の長野県松本市)で7万石(≒お米で約10500t)、出雲松江(現在の島根県松江市)で18万石(≒お米で約27000t)と領地を加増され移っていきました。
天和2年(1682)に大老・土井利勝の子、土井利房が大野城主となると、幕末まで約180年の間に、土井家から8人が城主となりました。
最後には、明治5年(1872)に入札により本丸が商人など20人以上に払い下げられ、約290年の大野城の歴史に幕が下ろされたのです。
天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。 その恩賞として、大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。 長近は程なく亀山に平山城の城郭と、その東麓に、「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めました。