天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。 その恩賞として、大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。 翌年、長近は亀山に平山城の城郭と、その東麓に、大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めました。
年号 | 西暦 | 大野のあゆみ |
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天正3年 | 1575年 | 織田信長、一向一揆討伐のため越前に乱入 |
金森長近、織田信長より大野郡の3分の2を与えられる | ||
長近、鍛冶座に特権を与える | ||
天正4年 | 1576年 | 長近、大野城の普請と城下町の建設を始める |
天正14年 | 1586年 | 長近、飛騨国高山に転封 |
文禄元年 | 1592年 | 織田秀雄(信長の孫)、大野5万石の領主となる |
慶長7年 | 1602年 | 土屋正明(松平秀康の家臣)、大野城に入る |
慶長12年 | 1607年 | 正明、松平秀康に殉死、正明の子忠次が後を継ぐ |
慶長14年 | 1609年 | 殉死の禁にふれ、忠次徐封される |
小栗美作、大野城に入る | ||
寛永元年 | 1624年 | 松平直政(秀康3男)、大野城に入り5万石を領す |
松平直基(秀康6男)、勝山城に入り3万石を領す | ||
松平直良(秀康7男)、木ノ本1万石の領主となり、木ノ本に陣屋を構える | ||
寛永12年 | 1635年 | 直政、松本7万石に転じ、松平直基、勝山より大野に入封 |
直良、木ノ本より勝山に転じ、木ノ本は廃藩となる | ||
正保元年 | 1644年 | 直基、山形8万石に転じ、松平直良、勝山より大野に入封 |
延宝6年 | 1678年 | 直良が大野城に没し、子直明が2代目を継ぐ |
天和2年 | 1682年 | 直明、明石6万石に転封 |
土井利房、大野城4万石に入封、定書五十六ヶ条を出す | ||
この年、城主の変動はようやく終り、藩政も確立 | ||
天和3年 | 1683年 | 利房、大野城に没し、利治(のちの利知)、2代藩主となる |
元禄10年 | 1697年 | 城下に十一ヶ条の諭告を出す |
元禄12年 | 1699年 | 領内に年貢減免の越訴が起こる |
正徳2年 | 1712年 | 領内検地規定二六ヶ条を定める |
享保17年 | 1732年 | 初めて大庄屋を置く |
年号 | 西暦 | 大野のあゆみ |
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寛延元年 | 1748年 | 本願清水の乱用を禁ずる |
明和8年 | 1771年 | 凶作、ききん起こる |
安永2年 | 1773年 | 専売制の会所を設ける |
安永4年 | 1775年 | 野口村から出火、城下1400戸を焼く大火となり、 大野城にも飛火して天守閣など焼失 |
天明年間 | 1781年〜 1788年 |
このころ、連年のごとく不作・ききんがつづき、 ついに天明7年(1787)、城下に暴動が起こる |
寛政3年 | 1791年 | 面谷銅山で新鉱脈を発見 |
文化4年 | 1807年 | 塚原野、栗原野で約50町歩を開田 |
文化7年 | 1810年 | 初めて消防組を設ける |
文政元年 | 1818年 | 土井利忠、大野藩土井家第7代の藩主になる |
文政6年 | 1823年 | しばしば火災を起こした野口村に屋敷替えを命じる |
文政年間 | 1818〜 | このころ、大野城下にたびたび大火が起こる |
天保3年 | 1832年 | 面谷銅山の経営を刷新 |
天保年間 | 1830年〜 1843年 |
餓死者が続出、新田野に穴を掘って埋めたという |
天保13年 | 1842年 | 土井利忠、藩政改革を開始、多くの人材を登用 |
天保14年 | 1843年 | 「学校創設の令」、藩校を創設、翌弘化元年(1844)、明倫館と称す |
弘化2年 | 1845年 | 洋医学を採用 |
高島流砲術(西洋砲術)を採用 | ||
下曽根金三郎に洋式大砲を鋳造させる | ||
弘化3年 | 1846年 | 新田野で野戦砲の試討を行う |
嘉永2年 | 1849年 | 堺から職人を招き領内で鉄砲を鋳造 |
嘉永4年 | 1851年 | 種痘の施術所を城下1番町で開設 |
嘉永6年 | 1853年 | 佐久間象山に学び、大砲を購入 |
年号 | 西暦 | 大野のあゆみ |
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安政元年 | 1854年 | 小児に対して強制種痘を命じる |
洋陣法により新田野で大演習を行う | ||
このころ藩内に蘭学熱が盛り上がった | ||
「海上砲術全書」「海上砲具全図」を出版 | ||
安政2年 | 1855年 | 大坂北久太郎町に大野屋を開店、たばこなど大野の物産を販売 |
蝦夷地の開拓を決定し、幕府に伺書を出す | ||
適塾の高弟 伊藤慎蔵を蘭学教授に招く | ||
安政3年 | 1856年 | 蝦夷地用懸を置き、蝦夷地の探検を実施 |
第二の藩校洋学館を開設 | ||
西川貫蔵の翻訳書「三兵用訣精論」が完成 | ||
蘭学修業のため全国各地から大野藩洋学館に入学するものが増えてくる | ||
安政4年 | 1857年 | 箱館に大野屋を開く |
大野屋の総本店として大坂屋を城下に開店 | ||
済生館(病院)を一番町に開設 | ||
北蝦夷地屯田を決定、まず探検を実施 | ||
安政5年 | 1858年 | 幕府、北蝦夷地屯田を許可 |
洋式帆船「大野丸」が竣工 | ||
安政6年 | 1859年 | 西川貫蔵の翻訳書「坑卒袖珍」が完成 |
大野丸、敦賀を母港として初航海 | ||
北蝦夷地屯田兵、大野丸に乗り込み出発 | ||
大野丸、奥尻島で米国の難破船を救助 | ||
大野藩、北蝦夷の鵜城(ウショロ)を根拠地として越冬を始める | ||
万延元年 | 1860年 | 幕府、北蝦夷地の一部を大野藩の準領地として決定 |
文久2年 | 1862年 | 藩主利忠が引退、利恒が後を継ぐ |
元治元年 | 1864年 | 内山隆佐、没す |
大野丸、根室沖で沈没 | ||
慶應2年 | 1866年 | 上野国から座繰機を買い入れ製糸業を振興 |
明治元年 | 1868年 | 新政府の命により箱館戦争に出兵 |
明治2年 | 1869年 | 北蝦夷地を新政府に上地、人員を引き揚げる |