越前大野城の城主は、築城されてから明治に入り城が払い下げられるまでの間に、19人が務めています。 安土桃山時代の城主には、金森長近のほか、豊臣秀吉の一族といわれる青木一矩(かずのり)や、信長の孫・織田秀雄(ひでかつ)などもいました。
江戸時代に入ると、大野は福井藩の一部となり、福井藩主・結城秀康(松平秀康)の有力な家臣・土屋正明が大野城主を務めました。 土屋正明は結城秀康の家臣でありながら石高は3万8千石(≒お米で約5700t)で、小藩の大名と同じくらいの領地を持っている優秀な人物でした。
寛永元年(1624)に、結城秀康の子・松平直政が城主となった際には、大野藩の石高は5万石(≒お米で約7500t)に加増されました。
松平直政はその後、信濃松本(現在の長野県松本市)で7万石(≒お米で約10500t)、出雲松江(現在の島根県松江市)で18万石(≒お米で約27000t)と領地を加増され移っていきました。
天和2年(1682)に大老・土井利勝の子、土井利房が大野城主となると、幕末まで約180年の間に、土井家から8人が城主となりました。
最後には、明治5年(1872)に入札により本丸が商人など20人以上に払い下げられ、約290年の越前大野城の歴史に幕が下ろされたのです。
金森長近は、大永4年(1524)に美濃(岐阜県)に生まれ、幼名を五郎八可近(ごろうはちありちか)といいました。金森の姓は近江国(滋賀県)守山金ヶ森に一時住んだことから、その地名をとったといわれています。18歳の時に織田家に仕え、当時8歳の信長の身のまわりの世話係として務めました。弘治元年(1555)には、今川義元との合戦で手柄をたて、信長の「長」の字を賜り長近と名を改めました。
天正3年(1575)に越前の一向一揆を収めると、その恩賞として、大野郡の3分の2(石高としては約3万5千石≒お米で約5700t)を与えられました。長近は標高約249mの亀山の頂上に天守閣を築き、ふもとに城下町を建設しました。越前大野城と城下町は400年以上経った現在もなお当時の面影を残し、短冊状のまちなみは「北陸の小京都」と呼ばれています。
天正14年(1586)には、秀吉の命令で攻め落とした飛騨一国を与えられ、高山城(岐阜県高山市)を築き、城下町を建設しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では東軍(徳川軍)に加わり功績を認められ、美濃国上有知(こうずち、岐阜県美濃市)を与えられ小倉山城を築き、引退してこの城で生活しました。慶長13年(1608)夏、京都伏見の屋敷で85歳の生涯を終えました。
土井利忠は文化8年(1811)、江戸に生まれ、8歳で土井家7代を継ぎ、文政12年(1829)19歳で藩主として大野へ入ってきました。藩の財政は非常に苦しく、利忠の藩政改革は天保13年(1842)の武士はじめ一般の人々に倹約をすすめた「更始の令」によりはじめられ、藩財政の立て直しと、人材登用を柱にしてすすめられました。
藩の政治や経済の立て直しには、新しい知識を学んだ人材が必要だと考え、弘化元年(1844)、藩校「明倫館(めいりんかん)」を開設。身分に関わらず誰でも入学できるよう、学習環境を整えました。
家臣を江戸・京都・大坂(大阪)方面に送り、西洋医学や砲術などを学ばせ、安政2年(1856)年には洋学館を開き、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾の塾頭・伊藤慎蔵(いとうしんぞう)を教師に招きました。藩財政が苦しいなか、高価な本を買い入れて資料を充実させると、50名を越える留学生が洋学を学ぶため全国各地から集まりました。
内山七郎右衛門良休(うちやましちろうえもんりょうきゅう)・隆佐良隆(りゅうすけよしたか)の兄弟は、利忠の「更始の令」から始まった藩政改革に尽力し、財政再建・人材育成など各種の事業で成果を上げた人物として知られています。
良休は、武士でありながら自ら政治経済学を学び、大野藩のタバコや生糸などの地場産品を売り出して富を蓄えることを提案。安政元年(1855)からは、越前の各地や大坂(大阪)、箱館(函館)など全国37箇所に藩直営店「大野屋」を開き、流通網を整備しました。今でいうチェーン店の先駆けです。経済面での手腕を発揮し、大野藩の多額の借金を返済して藩財政の立て直しに貢献しました。
弟・隆佐は洋式帆船”大野丸”に乗って蝦夷地に行き、現地調査や開拓を指揮し、万延元年(1860)には、北蝦夷地内(現在の樺太)の幕府が許可した土地は大野藩準領地となりました。
文久2年(1862)、藩主利忠が引退し、藩財政の立て直しに貢献した大野丸は2年後に根室で座礁し沈没するなど、不運が続き、明治元年(1868)に新政府へ許可地を返上しましたが、大野屋だけは着実に伸び、明治に入っても全国に店が広がっていきました。