天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、
大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。
長近は程なく亀山に平山城の城郭と、その東麓に、「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めました。
当時の大野城は、本丸に望楼付き2層3階の大天守2層2階の小天守・天狗櫓などを置き、麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川をつないで城を守っていました。
その石垣は、石を立てず、横に寝かせ、大きい石を奥に押し込んで積む、野面積みという工法で、貴重な史跡です。
長近が初代城主を務め、天正14年(1586)に飛騨高山に領地を移した後は、城主はたびたび入れ替わりました。 江戸初期には松平氏、天和2年(1682)には土井利房が領地入りし、廃藩となるまで土井氏が城主を務めました。
火事が絶えなかった江戸時代、大野城も例にもれず、幾度となく火災に見舞われました。
安永4年(1775)の被害はとりわけ大きく、本丸までもが焼失し、寛政7年(1795)に再建されるまで、物寂しい状態が続いたと言われています。
廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました(福井県指定文化財)。
現在の天守閣は、昭和43年(1968)、旧士族の萩原貞氏の寄付により再建されたものです。内部は資料館として活用され、土井氏の遺品をはじめとした貴重な資料が展示されています。
大野城の石垣は野面積み(のづらづみ)といい、自然石を加工しないで積み上げた古い形式の石垣です。
すき間には詰め石があったりと、一見したところ粗雑にみえるかもしれません。
しかし、敵の攻勢に備え短期間で築くことができ、また、水はけがよいため風化は少なく、大へん堅固です。
(城内説明板より)
現在の天守は、昭和43年に絵図や同時代の城を参考に鉄筋コンクリート構造によって再建されたものです。内部には歴代城主の遺品が展示され、資料館として利用されています。